昨日の記事に引き続き体罰について書きたいと思います。

体罰がどこかで正当化されて来た背景には、
『自分たちもそうやってきたのだから、同じように厳しくしないといけない』
という思い込みもあるように思います。
その思い込みは、自覚している部分と無自覚の部分があり、体罰がなくなら
ない要因の一つになっているのではないでしょうか。

人間は、自分が辛い体験を乗り越えた時、その体験の中には受け入れがたい
ものがあったとしても、乗り越えた後には美化してしまう傾向があります。

記憶というものは、過去の辛い体験と同じような体験をする機会に遭遇した
場合に、効果的に自分を守れるように辛かったことや怖い思いをしたこと
ほど強く残る傾向があります。
しかし、その記憶を辛いこと、怖いことのまま残しておくことは精神的な
負担になるので、その体験を美化して記憶してしまうのです。

 

体罰を受けたという体験にもこの原理は働いているように思います。
実際に体罰を経験した人が
「自分たちの頃は殴られながら物事の良し悪しを覚えた」とか
「たくさん殴られたけど、今ではいい思い出だ」ということを言われて
いるのを何度も聴いたことがあります。

もちろん、体験をどうとらえるかということは個人差がありますし、指導の
際に手をあげていた相手と手をあげられた人が、どのような信頼関係にあった
のかということでも、その出来事をどう感じたかは違って来ると思います。
本当に指導者に感謝している場合もあるでしょう。

しかし、人間の尊厳というものを考えた時、他人を叩く、蹴または投げ飛ばす
というようなことを要因してしまってはいけないと思うのです。
多くの人にとって体罰を受けることは自尊心を低下させ、本当の反省ではなく
反発や恐怖を心の中に生むことになるでしょう。

 

指導者は、教え子との信頼関係ができていると思っている場合でも、普段から
人を叩いたり、蹴ったりする人を尊敬できている可能性はかなり少ないと思い
ます。

私は、体罰を受けた記憶の美化が、体罰を正当化することに懸念を感じていて、
根本的な人間の尊厳、他人との距離感を大切にした指導ができる指導者が
増えることを願っています。

 

 

s-mm