スポーツ界では、さまざまな競技でパワハラや体罰の問題が浮き彫りになって
きています。

 

体罰に関しては、何年も前から問題として取り上げられていても、現在も指導
の現場で行われていたり、体罰をしなくても指導者がその権限で選手に過度な
指導、要求をするパワハラに形を変えている現状がありますが、そのような
ことが無くならない背景には、現在の指導者たちが自分たちが受けた指導を
肯定しているという心理があると私は考えています。

自分たちが選手だったころ、体罰のある指導を受けてきた世代の指導者は、
その指導を受けても学生自体を乗り切った、選手生活で結果を出したと
いう自分の過去を肯定しているように思うのです。

 

それは、人間は理不尽だと思える行為を受けたり、辛いと思う環境の中で
生活するためには、不満や怒りを持ちつつも容易に抵抗できないため
『それは自分のために厳しくしてくれている』、
『自分が成長するためには必要なことだ』
と自分に言い聞かせながら耐え続けることをします。

人間の心には防衛機制という働きがあり、自分の心を守るために現実を
受け入れるための理由付けをしたりするのです。

 

実際に指導者も暴力という手段は間違っていたとしても、選手に対し
愛情を持って、選手の成長を願って厳しく接することがあったことも
事実だと思います。
ただ、選手が指導者の望む結果を出さない、望む行動をしないことに
対して、感情的に暴力を振るったこともあるでしょう。

選手は、自分が試合に勝ちたい、強くなりたい、上手くなりたいという
自分の欲求があるため、指導者がコントロールできない感情を暴力と
いう形で受けながら、自分の目的を達成するためには必要なことだと
現実を肯定してしまうのです。

 

選手目線からすると、理不尽な厳しさ、行為を受ける環境でも目的を
達成するために努力を続ける自分は心が強いと肯定したいだろうし、
それをやり遂げた場合は、なおさらそれは自分に必要で、自分を成長
させてくれたという思いが強くなります。
選手としては、それを肯定したい気持ちもわかるし、ある意味では
意思が強く、その環境を生き抜いたことで身に付く強さもあること
も事実でしょう。

そのため、自分が受けた暴力や理不尽な行為も含めて自分の選手生活
を肯定してしまうと、自分が指導者になっても暴力や権力を利用した
強引な要求をしてしまうのだと思います。

また、暴力や権力を乱用することは、容易に選手を自分の言うことを
聞かすことができるために指導の現場から無くなりにくいのです。

 

学生時代なら3年間、4年間という中で結果を出さなければならない。
大人でも、選手の体力の衰えがある以上、時間が無限にあるわけではない。
また、指導する選手の成果は、指導者の評価や実績につながり、人生
を左右するものになるため、指導者は暴力や権力の乱用によって選手を
指導するのです。

選手やチームを強くするための指導には、多大な労力が必要です。
その労力を費やすことのできる熱意が指導者には必要で、体罰を行って
いた指導者にも選手を本当に強くしてあげたい、勝たせてあげたいと
いう思いを持っている人がたくさんいたと思います。

だからこそ、選手の成功や成長を願う自分の思いと、自分の名誉を得たい、
賞賛を得たい、人をコントロールしたいという欲求、そして限られた時間の
中で選手を育てないといけないという焦りなどが混在してしまい、自分が
行った暴力や理不尽な行為は、どのような思いによって行ったのか自覚が
できないまま指導を続けてしまっているため、現在もスポーツ指導の現場
から暴力や権力の乱用が無くならないのでしょうか。

 

スポーツ指導における体罰、パワハラは、日本のスポーツ指導の歴史の中
で積み重ねれた負の財産ですが、その指導を受けてきた過去を指導者が
肯定している限り無くなることは難しいように思います。
頭では体罰やパワハラを肯定することは良くないとわかっても、自分の
受けてきた指導の良い点と悪い点を整理して、何を肯定して何を肯定すべき
ではないのかを整理することは容易ではありません。

そのため、今は社会的な問題として体罰やパワハラが取り上げられる中で、
世間の目があるから体罰もパワハラもできないということで、それらが
指導の現場から無くなっていくしかなく、本当の意味で体罰やパワハラが
無くなっていくのは、それらを受けずに選手生活を送った世代が指導者に
なっていく必要があると思います。

 

そのため、私も剣道の指導をする際には、自分が過去に受けた指導の良い
部分だけを引き継ぎ、暴力やパワハラのない指導をしていくと心に決めて
います。